プレミア学生インタビュー Vol.71 植田 亮太
プロフィール

大阪教育大学、教員養成課程中等数学専攻、5回生
大阪教育大学生協 キャリアサポーターOB
目標:学校を作ること
Q&A
Q1.君はどんな人?
根気が無いので努力ができず、自我が強いので協調性があまりない反面、プレゼン力や自分の面白いと思うことを面白く伝えられる力には自信があると思います。また、人を巻き込んでいく力もあるのではないか、と知人から評価を頂いたので、そうなのかな…と漠然と思っています。
インタビューの最初にこの質問をぶつけられ、これは自分を測られているようで怖いな…ととても印象に残ったので、この質問とその後に勝亦さんがおっしゃられたこと、そして自分なりに思ったことを後述したいと思います。
Q2.どんな学校を作りたい?
これも詳しくは後述しますが、子どもたち一人ひとりの興味を促進することのできる、一人ひとりが自分の進みたい道を選択することができるようになる、専門化までのお手伝いができるような学校が作ってみたいです。
客観視の限界と他己分析の重要性
自分の長所と矛盾する気もしますが、僕は自分がそれほど面白い人間だとは思っていませんし、また中身のある人間だとも思っていません。何を考える時にも大抵は手段から始まり、目的を後からつけて無理矢理成立させることが多く、それ故に他者に自分の意見を言った時、受け入れられなかったりそれに何の意味があるのかとご指摘を頂いたりしてきました。そういった経験からか、僕から客観的に見た僕は知れば知るほど味のしなくなる人間、知られれば知られるほどに他者から興味を持ってもらえなくなるような人間に見えています。
しかし、勝亦さんは周りから見た自分が重要だと、自己分析を自己の視点だけで行うという事はほとんど意味のない事だと言われました。それよりも他者から自分がどういう人間に見えているのかを知り、自分を変えてゆくことが重要だと。
その言葉を聴いた時、とても自分の中で腑に落ちたような感覚がありました。僕は内省的な人間で、自分自身がどのような人間なのかを考える時に他者の意見を参考することは滅多にありませんでしたし、これまで他者からの評価と自己評価とのギャップに苦しんだこと、そのギャップが原因で自分の力が発揮できなかった事が何度も何度もありました。新たに自分の外側の装飾の事を考えた時、自分からではなく他者からの視点でそれらを見つめた時に出る答えは、内省的な客観視点よりも具体的に、的確な自分へのアドバイスにもなるのではないか、と考えを改めさせられました。
なのでこれからは、勿論少しずつではあると思いますが、自分がどのように周りから見られているのか、どのような人間だと思われているのか、そういった他者からの視線も意識して自分を構築してゆくことで、さらなる自分の成長に繋げていければと思っています。
開かれた学校、教え手と受け取り手
学校を作ってみたい、と勝亦さんにお話しさせていただいた時、ご自身の経験や今の状況から、学校は”ハコ”ではなく”人”であり、人と人とをつなぐコミュニティが必要なのではないか、オンラインとオフラインを使い分けて行う新しい形の教育もあり得るのではないか、という事など様々なアドバイスを頂きました。そんなアドバイスを基に、僕なりに考えてみたことがあるので、その漠然とした「こんな学校があったらいいな、」をここに記してみたいと思います。
学校を作る、という事を考えてみた時にまず頭に思い浮かんだのは、教育を受けられない子どもたち、学校に行けない子どもたち、そしてその保護者の方々の事でした。何やら面白そうな教育方針やカリキュラムを持つ私立学校を作ることは金銭的な問題を除けば簡単にできるのではないかと思います。でも教育を受けるべき立場のそうした状況にある子どもたちを掬い取ることはできない、様々な事情を抱える保護者の方々に手を差し伸べることはできない。つまり、誰にでも参加できる学校、そして様々な繋がり方のできるコミュニティが生まれる学校でないと作る意味はないと思いました。
それを実現するためにはどういう形があるのかと考えていた時、偶然テレビ番組である一家の様子が映し出されました。自然の中で自給自足の生活を送るその一家の暮らしは、生命の教育、食育、情操教育、「流行りもの」への教育、様々な面において学ぶところがあるなと思わされました。こういったことはなかなか学校では学べないな、とも。
そこで僕は、教師が学校の先生、教職免許を持った人間である必要はないのではないかと考えました。教科の垣根を超えたところに教え手と受け手がいて、様々な状況にある教え手から受け手は様々なことを各々違った視点で受け取ることができ、それぞれの学びに繋げることができる、教育の形としてそんな形もあっていいのではないかと。またその方向性であれば、保護者の方々にとっての学びにもつながる可能性がある、もっと言えば、教え手を様々な方々の中から探すことで、子どもたちはもちろんの事、保護者にとっての繋がりも生まれ得るのではないか、様々な状況に置かれ、様々な困難、それも火急的な問題を抱える家庭に対しての支援策としても有効な方法になり得るのではないか、と思いました。
具体的にその方法を考えた時、オンラインとオフラインの使い分けが有効なように思えます。オンラインで繋がる場、見つける場を用意して、より具体的な学びを得たいと受け手が考えた時オフラインでのイベントや二度目の出会いの場を用意する。しかし、オンライン環境がある家庭が全てではありませんし、たとえネット環境が通じていたといてもオンラインの通じにくさ、実感の無さ、臨場感の無さという問題は克服できないようにも思えます。さらにオンライン上でのつながりというものは人によっては希薄に感じられるものでもあると思います。
その解決策はまだ見えないままですが、一つの方法として、まずは地域で繋がるコミュニティを形成すること、お互いが助け合える距離感の中で繋がりをまず形成しておくことで、受け手側は繋がれるんだ、という実感を持ってコミュニティに参加できるようになり、教え手と繋がる際にもその抵抗感は少なくなるように思えます。
勿論、子どもたちや保護者の方々の中にはあまり地域の方と一定以上の距離感を埋めたくないという方もいらっしゃると思います。また、子どもたち同士の関係性もある。どのように地域のコミュニティを形成して行けばいいのか、どのように既存のコミュニティの中に入ってゆけばいいのか、難しい部分はあります。なのでその部分も委ねて、繋がりたいと思っている人を見逃さないようにする、繋がりたくない人は繋がらなくてもいいし、繋がりたい人は繋がっていく、そういった自由度を持たせることもできると思います。繋がりたいと思ったときに繋がれる場所を作ること、これが大切なのではないかと思います。学校という形をとっていたとしても、教育課程として機能するだけが学校ではなく、子どもたちの居場所として機能していくだけの学校もあっていいのではないかと。
重要なことは、誰にでも自由に参加できるコミュニティ、学校であるという事。そしてあくまでも役割として、「その子」のやりたいことを促進するものであること、矯正でも強制でもなく、繋がっていくこと、見つけていくことを目的とすることだと思います。
勿論、学費や課外学習、子ども食堂など、実現させたいことは山積みなので、費用の面や教育課程等問題もまた山積みですが、大学で教育学的見地、また子どもたちの発達や成長の観点から考えてゆくとともに、人と人のつながりとはどういうものなのか、またそのつながり方とはどういった形があり得るのか、様々なコミュニティの形を学んでゆくことで、いつかこの無謀な夢物語を現実にできるように、邁進してゆきたいと思います。